關(guān)于日本茶道論文的資料,和敬清寂,一期一會(huì)
四規(guī)(しき) 〔和敬清寂(わけいせいじゃく)〕
この4つの文字の中には、すべてのお茶の心がこめられているといわれています。
「和(わ)」とは、お互いに心を開いて仲良くするということです。
「敬(けい)」とは、尊敬(そんけい)の敬で、お互いに敬(うやま)いあうという意味です。
「清(せい)」とは、清(きよ)らかという意味ですが、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということです。
「寂(じゃく)」とは、どんなときにも動(dòng)じない心です。
お茶を飲むとき、お點(diǎn)前(てまえ)をするとき、また、お客様になったとき、お招(まね)きしたときなどに、この「和敬清寂(わけいせいじゃく)」ということばを思い出し、おけいこに勵(lì)(はげ)みましょう。
和敬清寂と一期一會(huì) 李 靜芳
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日本の古都としての京都で留學(xué)している私は、茶道の稽古に周に一回通っています。茶道の稽古を通して?私の見た日本?は、お茶の精神を?qū)g現(xiàn)して、茶道の文化と相互に輝いて「和敬清寂」、「一期一會(huì)」な日本です。
茶道は建筑、美術(shù)、書道、哲學(xué)、禪など日本の風(fēng)土が育んできた文化的な結(jié)晶の一つといえるものだと思います。茶道が精神面に反映したのは、茶道の大成者千利休(1522-1591)が茶道のあり方について教えた言葉である四規(guī)「和敬清寂」と井伊直弼(1815-1860)が茶湯一會(huì)集の中に教えた「一期一會(huì)」だと思います。
(一)和敬清寂
四規(guī)「和敬清寂」はお茶の心として見られています。四規(guī)の內(nèi)容を簡(jiǎn)単に說明すると、「お互い仲良く(和)敬いあって(敬)、見た目だけでなく心も清らかに(清)何事にも動(dòng)じない心(寂)を持ちなさい」という意味です。更に詳しく說明すると、和は平和の和、敬は尊敬の敬、清は清めるという精神、寂は何事にも動(dòng)じない心を表します。また、寂の実現(xiàn)は和、敬、清を?qū)g現(xiàn)した后にしかできません。
これから、私が見た「和敬清寂」な日本について說明します。まず、和は人間と人間及び人間と自然の間の平和です。例えば、京都で行われるいろいろな祭事や祭りの目的は自然と人間の平和共存を祈ることです。その中で、毎年5月15日に行われる葵祭は代表的な一例だと思います??坤纹鹪搐?、今から約1400年前の欽明天皇の西暦567年にさかのぼります。その時(shí)、日本國(guó)內(nèi)は風(fēng)雨がはげしく、五谷が実らなかったので、祭事を通して、風(fēng)雨がおさまり、また五谷が豊かに実って國(guó)民も安泰になるように祈ったのです。他にも、毎年5、6月には、京都の町中を歩いている時(shí)、店の門前によく“子育て中、頭上注意”などのポスター或いは掲示を見かけます。これは、店主と、子を育てる燕との平和共存のシンボルと扱えるいい例だと思います。大體、私の國(guó)では、このように店の出入り口の上の屋根に巣があるという光景は見られません。大分、このように店の出入り口に筑かれる巣が商売を妨げるという原因で、見つかり次第取られてしまいます。従って、このような人間と燕との平和共存の光景に、特に深く印象付けられました。上述の二例とも人間と自然との平和を求める実例だと思います。
次に、尊敬の敬について。日本では伝統(tǒng)的に目上の人に対して尊敬するということが大事です。日本の家庭教育が“敬い”を重視し、こういう家庭教育に基づいて、他人を尊敬するという躾を身に付けたのです。これが職場(chǎng)に反映され、年功序列の制度が作り出されたのだと思います。またこれが日常生活に反映された結(jié)果、ドライバーは大體いつも自転車や歩いている人に道を譲り、自転車同士もよく譲り合います。これは私にとって、日本と自分の國(guó)との大きな相違點(diǎn)だと感じることです。母國(guó)では、ドライバーは大體自分のことを第一に考えます。それゆえ、交通信號(hào)をちゃんと守らない人がすくなくありません。ましてや、自転車や歩いている人に道を譲ることはとても珍しいことです。だから、日本へ留學(xué)に來たばかりのころ、自転車に\るときはいつもドライバーたちが道を譲ってくれることに戸惑っていました。結(jié)局、両方が止まったままという場(chǎng)面のあと、むこうの合図で、自分が先に通ってよいということがわかりました。上述のように、日本の社會(huì)は敬に基づいて筑かれた社會(huì)と言ってもよいと思います。
清については、清は外(物質(zhì)面)と中(精神面)を清めることだと思います。外を清めるということから見ると、日本の家々では大體玄関で靴を脫いで家に上がります。床もきれいに拭いて、これが日本のお寺に上がるときも同じように靴を脫がなければなりません。私の國(guó)にも仏教の寺があります、でも普通拝観する時(shí)に靴を脫ぐことはほとんどありません。だから、日本のこういう獨(dú)特な現(xiàn)象は多分清める意識(shí)と関系がないとは言えないと思います。次に、心を清めるということに関して。日本特有のいろいろな武道、例えば、相撲、弓道や合気道などでもよく清めることが大切に行われます。相撲の塩まき、弓道や合気道の正座などは心を清めることを反映する儀式だと思います。これらのように、外と中を清めるという意識(shí)が日本の生活や文化に反映されているのだと思います。
寂は和、敬、清を?qū)g現(xiàn)した后のみに実現(xiàn)される、何事があっても動(dòng)じない心を表します。これまで述べてきたように、京都は人間や自然の平和共存、人々同士の相互尊敬や物質(zhì)、精神面の清めの下で、何事があっても動(dòng)じない、侘び寂びの都となりました。このように、ほかの大都市と違って、?寂?の特質(zhì)があるからこそ、毎年大勢(shì)の観光客が引き付けられて、京都を訪れます。多分、彼たちはこの?和敬清寂?な都で、落ち著いた生活を通して、リフレッシュできると思うのでしょう。私も、このような?和敬清寂?な京都の留學(xué)生活を毎日満吃しながら、心の落ち著きを感じることができました。これは多分周りの雰囲気や人々とのふれあいの影響だと思います。上述のように、「私の見た日本」は茶道の四規(guī)?和敬清寂?の精神が実現(xiàn)する日本です。その他に私は、茶道の「一期一會(huì)」の精神が実現(xiàn)する日本も見ることができました。
(二)一期一會(huì)
「一期一會(huì)」とは、一生にただ一度の出會(huì)いを大切にしなさいという意味です。茶事の時(shí)、主人と客は利休七則「茶は服のよきように點(diǎn)て」「炭は湯の沸くように置き」「冬は暖かに夏は涼しく」「花は野の花のように生け」「刻限は早めに」「降らずとも雨の用意」「相客に心せよ」に従って、お互いの出會(huì)いを大切にします。主人は床の間に飾る掛け軸や花、茶碗などの道具を心込めて用意します。一方、客はそれらのものから主人のもてなしの心を思い、感謝の気持ちを持つのです。
初めてお茶の先生から「一期一會(huì)」と言う話を聞いたとき、私はこの「一期一會(huì)」の意味がよく理解できませんでした。私は、茶事では何度も同じ人と會(huì)う機(jī)會(huì)があるのだから、「一期一會(huì)」ではないはずだと思いました。その后、先生から毎度の茶事では亭主やお客が同じでも、その茶事を行うときの天気やお茶の道具や露地、庭の景色なども全て同じというわけではないから、毎度の茶事に対してはいつも「一期一會(huì)」の気持ちを大切にするのだという返事をいただきました。その后から、私も日本での生活の中で、だんだん「一期一會(huì)」の真義がわかるようになってきました。例えば、日本の制品、交通や案內(nèi)システム、店や旅館などの接客や、そして自分のホームステイの経験からわかるようになりました。
先ず、日本の制品の面から見ると、日本では品質(zhì)や使いやすさなどの高度な関心の下で、すばらしい制品が作られています。その中で代表的なのは日本の自動(dòng)車や電子関連制品だと思います。日本の自動(dòng)車は省エネルギーで高性能な自動(dòng)車が開発され続けています。性能、値段とも消費(fèi)者の立場(chǎng)からよく考慮されるから、世界中で売り上げがどんどん伸びています。電子関連制品に関して言うと、日本はかつてから、電子制品の王國(guó)と言われています。近年にも日本の攜帯電話のいろいろな便利な機(jī)能や操作などが、他の國(guó)にとって學(xué)習(xí)の対象になりました。
次に、日本の交通や案內(nèi)システムから見ます。日本の交通や案內(nèi)などの標(biāo)示は外國(guó)人に対しても分かりやすいと思います。各種の地図や案內(nèi)用パンフレットがいつも駅や観光案內(nèi)所に揃っています。駅構(gòu)內(nèi)やプラットホームでも時(shí)刻表やいろいろな印がはっきりと、わかりやすく書かれています。電車に\るときもちゃんと放送を通して、お客に\り換えの案內(nèi)や次の駅の情報(bào)などを伝えています。また、日本の電車が時(shí)刻に遅れることがあまりないという點(diǎn)も、大切に接客することの一つの表現(xiàn)だと思います。
そして、日本の店や旅館などの接客について。日本の店で買い物する時(shí)はいつも店の主人がやさしく說明してくださいます。買いもの自體も客自身の判斷にまかされ、強(qiáng)引に買わせるということは殆んどありません。また、日本の旅館については、特に溫泉旅館など和式旅館が世界各地の旅館と比べてもっとも特徴的なのは、女中などの親切な案內(nèi)や部屋食サービスなどです。女中が親切に食事の支度をしたり、食べ物の說明をしたりしてくれます。これは日本の文化や食文化にあまり詳しくない自分にとって、本當(dāng)に役にたち、楽しく食事を過ごすことができました。このような「一期一會(huì)」の気持ちで、お客を大切にもてなすからこそ、毎年世界各地の観光客が日本を訪れるのだと思います。以上の事例から見ると、生活のいろいろな面で、日本の生產(chǎn)メーカー、サービス業(yè)などが皆、潛在意識(shí)として「一期一會(huì)」の気持ちで、お客や人々の出會(huì)いを大切にしていることにほかならないということがわかります。
最后に、私はまた、ホームステイの経験を通して、ホストの「一期一會(huì)」を大切にする気持ちを體験しました。ホストの家族との初対面のときから、家族の人は普通の會(huì)話を通して、ホームステイの當(dāng)日の食事やお風(fēng)呂などを準(zhǔn)備します。例えば、日本の生活には慣れましたか、日本の食事はどうですか、いつもシャワーあるいはお風(fēng)呂に入りますかなどという話題です。會(huì)話するときの自分は全く気にしなかったのですが、后で考えるとホストの家族は本當(dāng)に自分のホームステイを大切にもてなしてくれたのだという気がしました。そして、ホストの家族も忙しい中、いろいろ日本の風(fēng)土や習(xí)慣を紹介、案內(nèi)してくれました。自分の町のいろいろな所に連れて行ってくれました。その中の多くは、多分彼等が何回も行ったところだと思います。でも、彼等もまた情熱いっぱいに私にいろいろな說明をしてくれました。それは、たぶん彼等が人々に対していつも「一期一會(huì)」の気持ちで大切にするからなのだと思いました。ホスト家族のこのような熱意の影響で、自分もこういう「一期一會(huì)」の大切さがわかるようになりました。このような、日本の人々の生活の中から実現(xiàn)されるお茶の「一期一會(huì)」は留學(xué)生の自分にとって、留學(xué)生活の中で一番の本當(dāng)に忘れられないいい思い出を作り出してくれました。そしてまた、自分の一生の寶になると思います。
以上のように、私が知った日本は、茶室の中での稽古で習(xí)った?和敬清寂?、「一期一會(huì)」の日本文化と、日常生活を通して認(rèn)識(shí)した?和敬清寂?、「一期一會(huì)」の日本の生活を両方合わせて成り立っています。従って、「私の見た日本」は茶道の四規(guī)?和敬清寂?、?一期一會(huì)」の精神が実現(xiàn)された、輝いている日本です。
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